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九州・山口産業遺産協議会

小倉北区浅野3-8-1AIMビル6階, Kitakyushu-shi, Japan
Non-profit organization

Description

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明治日本の産業革命遺産が世界遺産に登録された。NPO法人九州・山口産業遺産協議会では九州と山口で行われた、産業革命と世界一の工業立国となった日本の、現までの歩みを紹介します。 九州・山口の産業遺産の教育普及活動を行うとともに産業遺産を活かした事業を通して地域社会の発展に寄与する。
1)調査・研究事業
2)情報提供事業
3)イベント企画・運営事業
4)地域活性化事業
5)雇用促進事業
6)物品販売事業

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日本の産業発展のために頑張ってきた直方駅。 1891年に筑豊興業鉄道の若松~直方が開業、1899年には本格的に石炭輸送拠点駅とするため、拡張が開始された。 そして、日本の産業ためになくてはならない筑豊からの石炭運び続けた。 そして、第二次世界大戦後はエネルギー革命によって石炭の出荷量が減少するようになり、1958年からは筑豊地区からの石炭輸送が減少に転じ、直方駅の作業も縮小していき、1984年に貨物輸送駅としての幕を閉じる。

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堀川物語 長年の人々の願い、多くの人々の尽力によってつくり上げた堀川・宝川  堀川とは、遠賀川と洞海湾を結んだ人口の河、そのルートは遠賀川から八幡西区・楠橋、中間市、水巻町そして八幡西区・折尾を経由して洞海湾洞海湾に繋がる、堀川の全長は12.1Km。 江戸時代初め、遠賀川はいく度も洪水を起こし周囲の村々に大きな被害をもたらした。 このような状況下、筑前藩主黒田長政が、遠賀川の支流をつなぎ、洞海湾にその水を灌ぐことで洪水や、干ばつの被害を防ぐ目的として堀川を建設することにした。 1621年に着工し、建設中には幾多の困難に直面し、途中で工事の中断もあるが、多くの人々の知恵と汗の結晶で183年もの歳月をかけて1804年に完成した。 そして、人々が安心して生活を営める環境が整い、堀川は宝川と呼ばれるようになった。 当時筑豊炭鉱で産出された石炭は、遠賀川から芦屋又は江川経由で全国に運ばれていた。 堀川が完成後は川ひらたを使い堀川を経由して若松に運び、そこから全国に運搬されるようになる。 1842年には堀川を通過した川ひらたの数が1万隻になり、経由地の中間、水巻、折尾が繁栄していく。 明治に入り、堀川を通過する川ひらたの通過数も大幅に増え、日本の産業近代化に大きく貢献してきた。 しかし、1891年に直方と若松を結ぶ筑豊興業鉄道が開通してから、堀川経由で運ぶ石炭の量がだんだん少なくなり、1932年(昭和12年)には175年に及ぶ長い期間貢献し続けてきた水運の歴史が幕を閉じた。 水運の役目を終えた後も、水田用に用いられていたが、鉱害により河川の地盤沈下や微粉炭が堀川に流れ込んだため、水田の用水確保が困難になり、1972年にはパイプによって水田に給水するようになった。 また、堀川建設時には、堀川と遠賀川支流が交差する部分に伏越(逆サイフォンの原理を使った川の交差点)を設けたが、洪水対策を目的として、1986年(昭和61年)に曲川の伏越が撤去され、翌年には堀川が鉄板で塞がれ、遠賀川は途中で寸断された形をなり、遠賀川の水が洞海湾に流れないようになった。 完成から200年以上経過した堀川を、再度綺麗な水が流れる川に甦らせて、宝川を呼べるようにしましょう!

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世界遺産物語 第10話 / 遠賀川水源地ポンプ室物語 ●ポンプ室建設の背景 官営八幡製鐵所が1901年(明治34年)に操業を開始した。 操業当初の鉄の年間の生産量は9万で、鉄づくりに必要な水の供給は構内に造られた高見貯水池から行われていた。その後、1904年に日露戦争が勃発し、兵器や弾薬の生産のため鉄の需要が26万トンと大幅に高まった。そのため1906年に第一次拡張計画を策定し、年間の生産量を18万トンに増やすために設備を拡張することになった。鉄づくりには大量の水を必要とし、高見貯水池では対応できないため、新たな水源を遠賀川に求めた。そしてポンプ室を八幡製鐵所から最も近い中間市に設け、配管を使って送水するようにした。 ●ポンプ室の建設 ポンプ室の建設が1906年から始まった。 配管の総延長は12km、送水システムの設計は近代水道の父を呼ばれる東京帝国大学教授の中島悦治氏によるもので、石炭ボイラーと蒸気ポンプはイギリスから輸入した。 当初は筑豊の石炭を燃焼させて蒸気をつくっていたため、煙突も設けられていたが、今は解体されている。 また、敷地内には筑豊から輸送してきた石炭の卸場やトロッコ列車の跡も見つかっている。ポンプ室の建屋は、奈良国立博物館の設計も行った舟橋喜一氏によるもので、平屋建ての煉瓦造り、幅20mx長さ40m。赤煉瓦と一部コーナーの柱には黒田泰造が開発した鉱滓煉瓦(鉄づくりの時の副産物である鉱滓を使った煉瓦)が使用されている。大正期には約50名の従業員が働き、ポンプ室の周りに官舎も建てられていた。 1950年(昭和25年)には、電動モーターを使ったポンプに取り換えられ現在に至っている。そして操業開始から100年以上経過した今でも、当時と変わらぬ威厳のある姿のポンプ室から、毎日八幡製鐵所で必要とする水の約70%を休みなく送り続けている製鐵所の心臓部である。 このことはまさに世界遺産に登録された明治日本の産業革命遺産を代表しているといっても過言ではない。

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世界遺産物語 第9話 / 終戦までの苦難の歴史 1937年(昭和12年)に勃発した日支事変が長期化するころ、資源の供給力に乏しい日本の経済は既に行き詰まり状態になっていた。 このような状況下で、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が始まった。 そして開戦半年後の1942年(昭和17年)ミッドウェー海戦における敗北を境に戦局が悪化すると、船舶の損傷によって南方資源の輸送力が激減し、国内では統制の対象となるべき物資そのものが枯渇し始めた。 ●太平洋戦争下の八幡製鐵所 海外からの資源に依存するわが国の鉄鋼業は重大な危機に直面する。 太平洋戦争開戦により、アメリカによる屑鉄禁輸出措置がとられ、ミッドウェー海戦によって南方からの鉱石資源も途絶えた。今まで有事に備えて備蓄してきた屑鉄や鉱石と、国内資源に頼りながら、操業をづけることになる。しかし、備蓄資源もだんだん底を着き始め、屑鉄を一般回収する措置もとられた。 1944年(昭和19年)には、唯一の輸入先である中国からの鉱石や良質の強粘結石炭の輸入が途絶え、高炉操業の継続が困難になり、国内で11基の高炉が休止し、唯一操業を続けたのが八幡にある、東田第2高炉、東田第4高炉と洞岡第4高炉の3基だけであった。 ●日本の戦争終焉まで 日清戦争後に製鐵所を建設し、そして日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日支事変を経験し、戦争と向かい合わせで発展してきた日本。 しかし、太平洋戦争開戦時は既に行き詰まり状態の日本、1944年(昭和19年)から崩壊の一途を辿って終戦を迎える。 【1944年(昭和19年)】 ・6月16日:北九州地区(下関、門司、小倉、戸畑、八幡)空襲 これから日本全土の空襲が始まる ・8月29日:八幡空襲 八幡製鐵所の設備が大打撃を受ける 【1945年(昭和20)年】 ・3月27日〜7月11日:関門海峡に5000個もの機雷を投下 ・6月19日〜20日:福岡大空襲 約1,000人犠牲 ・6月29日、7月2日:下関・門司大空襲 約18,000人犠牲 ・8月6日:広島原爆 約123,000人犠牲 (ウラン型爆弾) ・8月8日:八幡大空襲 約2,500人犠牲 ・8月9日:長崎原爆 約73,000人犠牲(プルトニューム型爆弾) ・8月15日:終戦 ●原爆投下後の八幡製鐵所 1945年に8月8日の八幡大空襲で、八幡製鐵所も殆どの設備が壊滅状態だった。 しかし、高炉と最低限鉄を生産する設備は修復すれば使える状態であった。 終戦当時、唯一残った高炉は八幡製鐵所の3基だけであった。 しかし、原料炭を供給する筑豊炭鉱や北松炭田も戦争の被害で操業停止の状態に陥った。 製鐵所の操業を維持することが戦後復興の重要な使命であり、八幡製鐵所の社員が立ち上がり、自ら筑豊炭鉱や北松炭田に行き、自らの手で石炭を掘り、首の皮一枚だけ繋がっていた、日本の経済活動を維持していき、今日の豊かな日本につなげた。   ●なぜ長崎に原爆が投下されたのか なぜ小倉(北九州)に原爆が投下されなかったのか?それは、北九州という括りでなく、各旧5市単位で戦闘計画を立てことも考えられる。 アメリカ軍は空襲と原爆の場所を入念に検討し計画した。原爆の場所決定に際しては、被害が正確に測定できる半径5Km以上の市街地で軍事工場があるところを選んだ。 最終的に決まった場所が、広島市、小倉市、長崎市、新潟市。 当時、北九州市は存在しなかったため、八幡、門司、戸畑、若松は別の地域として扱っていた。 従って、小倉の隣にある八幡市は、空襲の標的とされ、8月8日に八幡大空襲に見舞われ、2500人以上が亡くなった。 そして、運命の8月9日、原爆を搭載したB29が小倉市上空に差しかかるも、前日の八幡大空襲の煙と煙幕を上げたことにより、投下目標地が確認できず、長崎に変更、11時2分に松山上空で投下され、7万人以上もの尊い命が奪われた。 広島と長崎に投下された爆弾の種類はウランとプルトニュームを異なる。 このことは、明らかに原爆の威力を確認するための実験であった。 ●永井隆教授のメッセージ (長崎医科大学) 自ら長崎原爆に被爆しながらも、多くの被爆者を救済しながら世界平和を訴え続け、被爆から5年後に43歳の若さで亡くなった「永井隆教授」のメッセージを全世界に発信します。 たとえ針でも隠し持っているものは世界平和を祈る資格がない。 Message from Dr. Nagai The person who prays for peace must not hide even needle, for a person possesses weapon is not qualify to pray peace.

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世界遺産物語 第8話 / 満州事変と洞岡地区の拡張    海に築く製鉄所の先駆け 第一次世界大戦後、アメリカも1929年にウォール街の株式暴落で恐慌が起こり、それが世界中に波及していった。日本では1930年(昭和5年)に昭和恐慌が起き、国際的緊張に対応するために軍事力強化を図る。 そして、1931年に勃発した満州事変は日本の産業に大きな意味を持つ。 鉄鋼原料と製品市場確保のために軍事力により中国・満州に踏み込んだものであり、膨大な軍事を通じて、重化学工業及び関連産業の発展を促進した。 一方、金本位制の停止が赤字公債の発行による財政支出の増大によって、産業活動を刺激する道を開いた。 ●洞岡地区の拡張 洞岡地区(葛島と東田地区の間の海)は、高炉で発生した鉱滓の捨て場として、1918年(大正7年)頃から埋め立てが開始された。 当初は、有事の際の原料や鉱石を2~3年分確保する用地づくりが目的であった。 しかし、八幡地区は拡張の余地がなくなったため、この場所に新しい工場が次々と建設される。 ●海に築く製鉄所の先駆け (1930年〜1938年) 洞岡は日本鉄鋼業の立地の特徴である「海に築く製鉄所」の先駆けとなった。 東田地区はドイツ式のレイアウトでつくったもので、陸上輸送による内地原料を主眼とし、製品の運搬に自然への勾配を利用する目的で、製鐵所の一番高い海抜15mの土地に高炉を建設した。 しかし、原料の大部分は海外から船舶で輸入しており、汽車や索道による構内運搬費がかさんでいた。 大きなコストダウンを図る目的で海岸に高炉とコークス炉を建設した。 ・1930年:洞岡第一高炉火入れ、洞岡コークス炉操業開始 ・1933年:洞岡第二高炉火入れ ・1937年:洞岡第三高炉火入れ ・1938年:洞岡第四高炉火入れ、洞岡第五コークス炉作業開始

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世界遺産物語 第7話 / 高見神社物語   明治神宮の兄貴分となる高見神社 高見神社の由来は1世紀の時代に遡る。神功皇后が仲哀天皇を崩御の後、熊襲・朝鮮平定にあたり、皇后みずから御祖神十二柱を祀ったのが創始といわれ、近郷高見神社の本宮でもある。 創始時代は洞海湾岸の大字尾倉字高見(現在のスペースワールド西側)の小高い丘陵、高見山と呼ばれる場所にあった。 ●高見神社の移設 1897年(明治30年)に八幡村に官営製鐵所を建設することが決まった。 高見山に長官・技監を筆頭とする高等官の官舎や貯水池を設置することになったため、高見神社は移設を余儀なくされ、製鉄所建設時に豊山八幡宮(千草ホテルの近く)に仮住まいすることになった。 操業開始から5年後の1906年(明治39年)に第一次拡張計画が議会で承認されると、高見山に建設された高等官の官舎も、構外に移ることになった。 現在地の大蔵槻田地区に高等官・判任官用の官舎と職工用の宿舎である職工長屋が建設された。 1911年(明治44年)の図面で推定すると、高等官用官舎26棟26戸、判任官用の官舎29棟58戸、職工長屋230棟1100戸と今でいうニュータウンが開発された。 山手側に建ち並んだ高等官・判任官用の官舎の一体を高見と呼び、構内からの地名を引き継いだ。 職工長屋の一帯は一条町~六条町と名付けられた。 ●高見神社の建設 官営八幡製鐵所が操業した当初から高見神社は製鐵所の守護神とされ、それに相応しい地に造営したいという思いが製鐵所関係者の間に強くあった。 民間会社の日本製鐵となった1934年(昭和9年)時に新しい神社を造営することを決定し、設計を内務省神社局の角南隆技師に依頼した。 は、春日造、住吉造、大島造、大社造といった古い時代感覚の模倣を一歩も出ない建築家に不満を持っており、昭和に時代を象徴するような神社建築を後世に残したいという思いで、新様式の神社設計に取かかった。そして近代遺産の観点からも評価できる高見神社が1936年(昭和11年)に完成し、37年の仮住まいを経て現在の地に永住の地を定めるとともに、地域の神様の枠を超え、製鐵所の守護神へと大きく性格を変えていった。 ●高見神社と明治神宮兄弟 角南隆技師は、1920年(大正9年)に完成した明治神宮の設計伊藤忠太教授の助手として参画した。その後高見神社の設計を行い1936年(昭和11年)に完成させた。当時は明治神宮が高見神社の兄貴分であった。 明治神宮は、1945年(昭和20年)に戦災で焼失したため、再び角南隆技師設計し、角南流の新しい社殿を1958年(昭和33年)に完成させた。 そして、今度は高見神社が明治神宮の兄貴分となった。 高見神社と明治神宮の双方を参拝する機会があるときは、是非とも兄弟の類似性という観点からもご覧ください。

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世界遺産物語 第6話 / くろがね線物語  戸畑と八幡を結ぶために敷設した八幡製鐵所の専用鉄道 八幡製鐵所は、戸畑で操業していた東洋製鐵と1921年に合併した当時から、戸畑地区で生成する熔銑を船舶で八幡へと輸送していたが、海上輸送のリスクと不経済性が指摘されていた。 一方八幡地区では、高炉の溶銑をつくるときの副産物である鉱滓(スラグ)の処理が問題化していた。 これらの打開策として建設されたのが、戸畑地区と八幡地区を鉄道で結ぶくろがね線。 ●くろがね線概要 ・八幡地区と戸畑地区を結ぶ、全長6kmの鉄道 ・宮田山トンネル:1180m ・レール幅:1067mm(旧国鉄/JR在来線と同じ) ・設計者:河内貯水池建設の総指揮である沼田尚徳 ・工期:1927年(昭和2年)起工し、1930年(昭和5年)に完成した。 その工事は全て製鉄所の社員で行っており、中間地点に当たる宮田山トンネルは出水等に見舞われて難工事だった。 また、宮田山トンネルの洞門は沼田尚徳によって、凝った意匠が施されている。 ・戸畑側入口はローマの古い城壁をかたどったデザイン。 ・八幡側入口はギリシャ・ローマの古典を倣ったルネッサンス風 ●使用目的 開業当初は戸畑で出来た銑鉄を八幡に輸送し精錬した、一方八幡で出来た鉱滓を戸畑に輸送し戸畑地区拡張のための埋立てに使われた。 現在では、半製品のスラブ、ホットコイルやレール等の輸送に使われています。

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世界遺産物語 第5話 / 河内貯水池物語   世界遺産登録の引き金となった土木遺産そして裏側に秘められた物語!     河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年)に竣工し、8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で1927年(昭和2年)に完成した。 その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳、当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を注いだ大事業。 この美しい景観の裏側に秘められた、「愛と悲しみ、そして情熱」の河内貯水池物語を紹介します。 ●水戸藩の沼田家 1875年(明治8年)、水戸藩に代々仕えた武家の家系で生まれた。 沼田家は尊王攘夷派/天狗党結成の発起人の一人である伯父沼田順次郎、藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた。 ●青年時代 1894年(明治24年)旧制第一高等中学に入学、そして新たに新設された京都帝国大学に1897年(明治30年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている。 ●官営八幡製鐵所に入社 1900年(明治33年)に京都帝国大学を第一回生として卒業、当時建設中だった官営八幡製鐵所に土木技師として入社した。 1901年(明治34年)に東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が操業を開始する。 1902年(明治35年)に技師を命じられ、1911年(明治44年)に修築科長となり、1915年(大正4年)にはアメリカとイギリスに出張した。手がけた工事は繋船壁築造工事に始まり、40万坪の洞岡埋築、くろがね線建設そして河内貯水池や養福寺貯水池建設といずれも当時の日本で最大級の土木工事ばかりである。 ●最初の挫折 1916年(大正5年)に竣工した下大谷貯水池が、わずか1ヶ月余りの後に豪雨で脆くも決壊し、製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした。 事故の原因は堰堤の強度不足であった。事故により尊い命が犠牲になったことが大きな心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。 ●渾身の大事業、河内貯水池 「土木は悠久の記念碑」 製鉄所第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として1919年(大正8年)に竣工し、8年の歳月をかけて1927年(昭和2年)に完成した。当時は東洋最大級のダムで、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を注いていく。 かつての河内地域は、八幡製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の山村留学も受入れている教育先進地域。 その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。 ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を用いた独自の設計で土木構造物への新しい挑戦をした。 更に環境にも優しい工法を積極的に採用し、将来市民の憩いの場所をすべく、橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。 このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を惜しまぬ村人へ何としても恩返しでもあった。安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず8年の建設期間中1名の死者も出さなかった。 80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達に親しまれている。 ●独特の英知を凝らして作った堰堤 ヨーロッパの古城をイメージ 当時コンクリートは高価の為、粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で亀裂を防止した。 工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。 使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて美観に優れたダムを作り上げた。 ●悲しみを乗り越えて 河内貯水池建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に押し潜めていた。 山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いていたようでもあった。 父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。 しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。 その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような悲劇であった。 河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。碑の両面には、漢文と英文でその思いが刻まれている。 【漢文】 愛する妻の魂はどこにあるのか。麗しきあの人と今は世を隔て、素晴らしき日々は夢に帰してしまった。散り行く桜の前にたたずむと断腸の思い。 【英 文】 IN MY MEMORY OF MY LATE BELOVED WIFE MRS. YASUKO NUMATA THROUGH WHOSE SELF-SACRIFICE AND UNDER GOD’S BLESSING I HAVE ENABLED TO CONSTRACT KAWACHI WATER WORKS. 【企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学】 実直でロマンティストの沼田尚徳は、営利栄達にはあまり縁がなかった。これほどの大事業を成功させ、製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、製鉄所では土木部長でありながら製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。 にも関わらず、1930年(昭和5年)に55歳の誕生日を待たずして静かに勇退した。 その後、八幡、戸畑、若松市の委託として三市の上水道整備を指導し多大な貢献をし、日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが、1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した。 ●遠 想 河内貯水池の堰堤を見下ろす小高い場所にヨーロッパの古城を模したと言われる管理事務所が建っている。 その出入り口に沼田尚徳の「遠想」の言葉を刻み込んだ石の掲額が残されている。 ここから河内貯水池を静かに見下ろしながら、遠く未来の想いを馳せているに違いない。 その未来の姿はどのようなものであったのであろうか。それは百年経った今でも人々の潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける日本の未来だったのではなかろうか。

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世界遺産物語 第 4 話 / 第一次世界大戦後に鉄鋼需要が大幅に伸びる 1914年に勃発し、1918年にドイツの敗北をもって集結した第一次世界大戦は、それまで日露戦争の反動不況に悩んでいたわが国に未曾有の「大戦景気」をもたらした。 そして、鉄鋼需要産業である、金属・化学・造船・機械等の重工業や電力業の伸びが飛躍的に加速した。 鉄鋼需要の70%を輸入に頼っていたわが国は、第一次世界大戦により各国が輸出禁止措置をとることによって、空前の「鉄餓死」に見舞われた。 そこで、八幡製鐵所の第三拡張計画を行うことになる。 ●第三期拡張計画(1917年〜1927年) 第二期拡張計画で年産能力35万トンとなったが、これを65万トンに一気に倍増する計画、予算は3,450万円で1917年から拡張した。 主な設備 東田第5高炉、東田第6高炉、黒田式コークス炉新設(2基)、第2製鋼工場拡張、坩堝鋼工場拡張、鍛鋼工場及びバネ鋼工場拡張、珪素鋼板工場、薄板及びブリキ工場新設、ドロマイト工場新設、発電所及び変電所新設、岸壁整備、河内貯水池 ●本事務所移転 1899年に建設された本事務所は、製鉄所拡張に伴い手狭となり、1922年に2代目に本事務所に移設された。 ●八幡製鐵所周辺の主な歩み ・1917年 八幡市誕生、東洋陶器(TOTOの前身)創業 神戸製鋼所門司工場(神鋼メタルプロダクツの前身) ・1918年 小倉製鋼所(住友金属工業、新日鐵住金の前身)創業、黒崎窯業(クロサキハリマの前身)、山九運輸(山九の前身)創業、鈴木商店 日本冶金(東邦金属の前身)創業、明治紡績創業 ・1919年 桑木あやお(明治専門学校教授)日本人で初めてアインシュタインに会い相対性理論を日本に広める、戸畑競馬場が三萩野へ移る ・1921年 門司港 欧州航路と上海航路を開設 ・1922年 アインシュタインが来日し講演活動を行う、門司に宿泊、中原海水浴場開設 ・1923年 関東大震災 約105,000人が犠牲 ・1924年 戸畑市が誕生

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世界遺産物語  日露戦争が八幡製鐵所拡張に拍車をかける 八幡製鐵所の建設時の生産能力は9万トン/年であったが、1901年の操業開始からトラブルの連続で惨憺たる状況だった。そして野呂景義を中心とした原因究明と対策で1904年にやっと軌道に乗った。 しかし時を同じにして1904年に日露戦争が始まり、兵器や弾薬不足で苦しむ。 ●日露戦争と鉄づくり 1904年に日露戦争が開戦された時の鉄の需要は26万トン/年に対して、大幅に供給量が少なく兵器や弾薬不足に苦しんだ。そのため、他の目的に鉄を使用せず、武器弾薬の製造に集中した。 そして、1905年に戦争は終結したが、このような惨憺たる苦労が、その後の国防強化に拍車をかけることになった。 ●日清戦争後の第一次拡張計画 戦後、軍事需要とともに、造船、建築、橋梁用鋼材の民間需要も増え、1905年時点で鉄の需要が45万トン/年に対して36万トン/年も不足し、大部分を輸入に頼らなければなかった。 そのため、1906年に第一次拡張計画を策定し、18万トン/年を目標に設備の拡張が行われた。 1909年に東田第三高炉が火入れし、1910年までに混銑工場、線材工場、第二分塊工場、第二小形工場、鉱滓煉瓦工場、コークス炉増設、ロール工場拡張など数多くの設備が増強された。 設備増強に伴い、工業用水の使用料も大幅に増えため、遠賀川水源地ポンプ室(世界遺産)も建設し、1910年に稼働を開始した。 ●八幡製鐵所周辺の主な歩み(1901年~1910年) ・1901年 鉄道連絡船 門司~下関開通 ・1902年 九州電気軌道 門司〜黒崎開通、戸畑~小倉間の鉄道開通(戸畑駅開設) ・1903年 横須賀、呉、佐世保の鎮守府を海軍工廠に変更 ・1904年 鈴木商店 大里製糖所創業 ・1905年 若松石炭協同組合事務所開設(石炭会館)、日本初の潜水艇が進水(横須賀) ・1906年 東京製鋼 小倉工場創業 ・1907年 戸畑競馬が始まる ・1908年 鹿児島本線が戸畑経由に変更、安田工業八幡工場創業、明治紡績&明治鉱業創業 ・1909年 日本初の戦艦「薩摩」が竣工、明治専門学校(後の九州工業大学)開設 ・1910年 筑豊石炭協同組合 直方事務所開設、森田範次郎商店(後のシャボン玉石けん)創業

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世界遺産物語 第14話 / 八幡製鐵所の苦難の船出 わずか4年で田畑につくり上げた製鉄所、1901年2月5日に東田第一高炉に火が入り、我国初の近代製鐵所が操業を開始した。 けど操業当初から計画通り生産できずトラブルの連続、ドイツ人も対策を講じることができなかった。 ●惨憺たる操業開始時の状況 1901年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。 しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。 火入れの翌日1.2トン出銑したが、原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。 その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して、わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、銑鉄の品質は概して粗悪であった。そしてついに1902年5月に休止した。 ●問題の大きな要因 技術導入したGHHはドイツの中堅鉄鋼会社であり機械製作会社であった。最も重要な設備である高炉や平炉の設計はGHH自体でなく、当時一人者とされていたン個人であり、自ら開発した実績のない新しい設備が含まれていたのではないか。 そして、わが国の石炭性状に対する知識や認識が甘く、それが設備に反映されてなかったことが安定操業できなかった要因であった。 そのため、日本の原料事情考慮し、日本人自らの手で問題解決する早急に必要があった。 ●野呂景義による原因究明と対策 日清戦争前に製鉄所建設構想をつくり、我が国初のコークスによる高炉操業を成功させた野呂景義が急遽呼び出され、陣頭指揮をとる。 ①原因の徹底究明 野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を業徹底的に調査した。 その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ送風停止が原因であると指摘した。 結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。 ②抜本的な設備改善と新しい技術の導入 炉圧に対してあまりにも大きい炉床と、炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、 堅質で大塊のものを製造」という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって積極的な改善が進められた。 日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。 このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、生産技術の実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。 一方、高炉で生産された銑鉄を精錬する製鋼部門でも、高炉と同じような欠陥があり、その分野でも抜本的な改善がなされた。 ●再火入れ 1903年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、2140日に亘って出銑を続けた。 ●八幡製鐵所創業の意義 人々の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに貢献することになった。 そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける原動力となっている。 生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である

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世界遺産物語 第13話 / わずか4年で田畑に近代製鐵所を建設した偉業 建設機械もない時代、熟練工もいない時代に、八幡村の田んぼに製鉄所建設が決定されてから、わずか4年間で、近代的な一貫製鉄所を建設した。 ●どこから技術を導入するか 製鐵所建設に際しては、海外の技術を導入することが決定され、1897年(明治30年)に大島道太郎を中心とする調査団の海外派遣が行われた。 アメリカ、フランス、ベルギーを経てドイツに渡った。 そして、日本が求めている多品種の鉄鋼製品をつくっているドイツのGHH製鉄所を実地調査し、 一貫製鉄所の建設エンジニアリング、機械、資材の供給、指導技師や職工長の派遣、技術者の実習受け入れについて、全計画をGHHに委託する契約を締結した。 ●建設工事の開始 当時は設備関連の技術蓄積もほとんどなく、職工も素人が多く棟梁、左官、石工、鍛冶等の従来型の職人はいたが、洋式工事の技能熟練者は皆無に近かった。 そのため、ドイツ人技師を雇い入れて指導を仰ぎ、八幡村の農地に製鉄所建設工事が始まった。 1897年(明治30年)に工務部機械課を設置し、設備基本計画、機材発注及び基礎工事を始める。機械設計や熟練工は陸海軍工廠に要請し、派遣してもらった。 1898年(明治31年)には、高炉関連設備の調達を始める。 高炉、捲揚設備、熱風炉、送風機設備、その他起重機や耐火煉瓦の設計、製作はGHHに委託し、担当工事が竣工するまでドイツ人職工長が滞在した。 1899年(明治32年)には、GHHからの資材が到着し設備の据付工事が開始された。 わずかな指導者の元で多くの素人工を率いて、ドイツからの輸送中に生じた鉄骨の変形や 形状の悪い煉瓦の手直しもしながら、苦労の多い仕事を行った。 この年に本事務所(世界遺産)が完成した。 1900年(明治33年)に修繕工場(世界遺産)、鍛冶工場(世界遺産)、堂山製罐及びお尾倉鋳造が完成した。 また、建設中の1900年には、初代内閣総理大臣の伊藤博文を始め多くの関係者が訪れ東田第一高炉の前で記念撮影を行った。 そして、1901年2月5日に東田第一高炉に火が入り、11月18日に多くの来賓を迎えて作業開始式が行われ、官営八幡製鐵所が創業した。

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