大徳山隆照寺
Description
堀切菖蒲園にある浄土真宗本願寺派(西)の寺院です。
兵庫県養父市十二所 佛光山西願寺 門徒総代 小柴家末裔 隆信を開基とする。
『養父町史 第三巻(民俗編)』養父町 平成6年発行によると「西願寺はもともとは真言宗の寺で、満福寺の下、坂本鉱山の建物が建っていたあたりにあった。しかし宝暦年間(一七五一~六四)に火災に遭い、十二所村古屋敷に移った。ついで天保年間(一八三〇~四四)、再び火災に遭った。前回のときは本尊、過去帳など重要器物・文献を持ち出すことができたが、次回のときはこれがかなわず、すべてを焼失してしまった。その次回の火事のとき、対岸の山斜面に、電気のスポットをあてたように円形の光がさし当たり、仏のお顔がうつった。この奇瑞をよろこび、西願寺の復興にあたっては川向こうの地を選んでそこに再建し、山号をも仏光山と改めたのであった。今でも西願寺裏の谷は仏面谷と呼ばれている。現在の本堂は昭和二十五年に建築にとりかかり、昭和二十七年に完成したものである。」と、縁起が記されている。
養父市 大徳山は、但馬における熊野信仰の中心であり、同時に十一面千手観音菩薩を本尊とする但馬高野とも通称された。この霊山を総ねた満福寺の塔頭寺院の一として、西願寺は創始される。しばらく勧進聖や修験道の往来が隆盛となるが、豊臣秀吉の但馬征討のおり広大な寺領を没収されてしまう。そののち、幾度の火災と堂宇の焼失により現在の地へ変遷し、宗旨を浄土真宗へと改めるにいたった。
1910(明治四三)年8月5日 兵庫県養父市 西願寺 総代 小柴家に人身を受けた隆信は進学を機に東京へ越す。京都 西本願寺で得度、僧籍を得てのち1933(昭和八)年3月、葛飾区小谷野町の地に念仏道場を結ぶ。1935(昭和十)年3月1日には宗派より布教使の任命を受ける。幼稚園を併設して老少一貫の育成教化に務め、終戦を待たずして1945(昭和二十)年3月10日には非法人寺院 住職として承認される。時しばらくして1952(昭和二七)年12月19日には東京都へ法人設立の承認を申請し、登記を以て宗教法人 隆照寺が成立する。戦後間もなくの混乱もあってか、親鸞聖人七百回大遠忌法要を前後して宗派より離脱してしまう。程なく、1968(昭和四三)年4月22日を以て往生。
二代正照は1947(昭和二二)年4月5日 生。初代命終の間もなく、1968(昭和四三)年6月9日には法人の代表役員へ就任し、1970(昭和四五)年8月15日には本願寺二三世 勝如宗主のお剃刀を賜り度牒を拝受する。その後、先代の遺した千葉県佐倉市の墓苑を整備拡大し、墓地を縁とした門信徒の遇法を結び寺門興隆を図る。葛飾区堀切の地では隆照幼稚園 園長として、仏法を根幹においた幼児教育に取り組み、保護司としても更生保護活動に従事、社会的実践を通して世間の理解を得る。 2010(平成二二)年6月15日には五十余年の時を隔て、教区および組内同心の援助と門信徒の志篤きことにより、改めて宗派との包括関係を設定することがかなう。現在は、三代隆幸へ法灯が伝わり住職を務める。
世事には紆余曲折を経ながらも、ただただ本願力回向による法義相続の円満無量たる恩徳の深きことには、報じがたくして念い、謝しがたくして称えるばかりである。